鶴見俊輔と音楽 粟谷佳司

鶴見俊輔における「限界芸術論」から「大衆芸術」と「限界芸術」の関係についての研究
 これは、鶴見の文化論においてほとんど言及されることのない音楽(流行歌、大衆音楽)を中心としたものであった。それを60年代後半から70年代前半の関西フォーク運動における鶴見論の展開として片桐ユズル岡林信康らの関西フォークの実践から考察したものである。
 また、鶴見の勁草書房版の『限界芸術論』において流行歌、替え歌に関する論考(「流行歌の歴史」)が収録されていたのが、その後に再編集された「限界芸術論」に関する著作においてはそれが省略されていることにより、鶴見の「限界芸術論」と「大衆芸術」の関係が見えにくくなっているということを指摘した。本稿はその続編として、鶴見の60年代(同志社大学教授時代)の著作活動と大衆文化との関係を歴史社会学、文化社会学の方法により分析する。

鶴見俊輔「いくつもの太鼓のあいだにもっと見事な調和を」

これは、鶴見の1960年5月から6月の記録である。

ここには竹内好が大学を辞したこと、ちょうど自らが東工大を辞したころの状況が記されている。

そして、ここで注目したいのがそのタイトルである。この「調和」というのはアンサンブルということで音楽的メタファーが有効に働いている。いくつもの太鼓が調和するというのは大衆運動を比ゆ的に表現しているものと思われるが、運動のさまざまな太鼓が見事に調和することによって「声なき声」が「かたち」になるということだろう。「調和」というのは、まさにジャズ、ポピュラー音楽の主題でもあり、アドルノからは好まれていないものなのである。

鶴見の音楽に関する直感的なメタファーは、彼がポピュラーな文化を実感として自ら取り込んでから評論していることをよく表しているのである。

ポストモダンディコンストラクションより、モダンの「もっと見事な調和を」に惹かれる*1。
(粟谷佳司)