人工音響空間についてのエスキス(粟谷佳司)

人工音響空間についてのエスキス(粟谷佳司)

 コーネリアスのBreezin'のCueのカバー。このCueはもはやテクノではない。言い換えればCueが製作された当時のテクノというイメージとは異なるということだ。
 テクノというのは、反自然の電子音、そしてシーケンサーがイメージとサウンドの要であると思われる。つまりYMOのコンサートでコンピューターを制御しているあの景色。しかし、コーネリアスのカバーではアコースティック楽器の響きが強調されている。もちろんこの曲でもシーケンサーは使ってるとは思われるが、響きがアコースティックな、つまりは自然な感じなのである。


point
コーネリアス

 この「感じ」とか「っぽい」というのが現在の情報環境ではキーワードになると思われる。それを可能にするテクノロジーも重要だろう。ポップミュージックと映像表現がこの環境を解明する手がかりとなるのだ。
 たとえば、アンビエントミュージックの代名詞であるともいえる初期のブライアン・イーノを聴くと、どれほどエレクトリック楽器に自覚的であるかわかる。ここでは、アコースティックな響きというのが排除されてエレクトリックの音色において音楽の響きの空間を構築している。それはまさに人工音響空間といえるものである。これはイーノがエンジニア的なミュージシャンであるということと無関係ではないだろう。


Brian Eno "Becalmed 
 一方、コーネリアス音響派の音楽空間は仮構のライブ空間を構築している。これは生の響きという空間が浮かび上がっているのだが、しかしそれも仮構という仕掛けが施されている。この自然の感じがエレクトリックな情報空間において構築されるのは、ポストロックといわれるバンドやアーティストの特徴のひとつであろう。
 Ino Hidehumiのライブ・サウンドは、まさにアコースティックなものとテクノ(ロジー)の仮構性とライブの身体性を融合させて音響空間を構築しようとしているといえる*1YMOがテクノロジーの音色を使ってまるでコンピューターが演奏するような音楽空間を構築していたのを、Inoはライブという空間においてアコースティックな響きによってそれを再構築しているのだ。
 しかしここにもテクノロジーは侵食してきている。「Kaleidoscope」における曲の間のMCにそれは顕著である。INOはMCをおそらくはサンプリングマシンに録音した女性の声によって行い、そこにエフェクトをかけたり発話をダブらせることによって、それが録音されたものであり虚構であるということを明示しているのだ。MCの声はいずれ判別不可能なノイズとなり、また普通の声に戻っていく。このような声やサウンド、ノイズに対する感覚はコーネリアスと通低するものがあるのではないか。

INO hidefumi "Fire Cracker"

INO hidefumi "Spartacus"

 ノイズを音楽に感じるというのは自然とは異なる人間の聴取能力だと思われるが、音楽空間はアーティフィシャルすなわち人工的に作られた空間であり、だから映像とかアニメとかと親和的なのだ。サンプリング思想が果たして音楽空間に自然を作ろうとしていたのかどうかは疑問だが、コーネリアスアコースティックギターを使うことによってそこに自然の音を再現しているといえるだろう。言い換えれば、これはアーティフィシャルな空間をアコースティックに聴かせるように音響空間を構築しているといえるのではないか*2

 音響空間において自然があたかも生態系のようにいかに構築されるのか。

 人工音響空間はロックの自然主義を顕にする*3。これはパンクと同様である。ここにはエレクトロニクスという仕掛けがある。人工音響空間はポピュラー音楽の初期からロックの自然主義に侵食してきている。これはレコーディング技術が記録から加工へ変化していった過程から考えられる。

 ここからフリスとポピュラー音楽批判のアドルノを再考してくことになる*4
 つづく
(粟谷佳司 社会学、音楽文化論)
(本稿は粟谷の次の著書の一部になりますので、引用はそちらから行ってください。)

*1:INOはKaleidoscopeのライナーにおいて、アルバムは一人で製作したと書いている。つまりテクノロジーを最大限に使用することによって製作しているのである。

*2:このあたりは慶應義塾大学で12月に行われる映画祭で喋ろうと思ってる。

*3:もちろんロックの自然主義はレコーディングという技術とともに実は最初から仮構性に侵食されてきている。そのことについては、粟谷「ロックの時代精神からオーディエンスへ」「ポピュラー音楽研究」第2号、あるいは、ポピュラー音楽学会のシンポジウムにおいて発表しておいた。

*4:カナダと日本の指導教授がフランクフルト学派の研究がベースにあるので、似てきたのか。当時は別のラインで考えていたのだが。